『見えぬとも 心通わす 曼珠沙華』
お彼岸の時期になると燃えるように咲く彼岸花。別名、曼珠沙華とも言われます。彼岸花を見ると、なんとも言えない寂しさが込み上げてくるような気がします。この時期亡き人に思いを馳せ、懐かしく感じたり、悲しみを抱いたりされる方もおられるのではないでしょうか。私自身もお彼岸の時期になると、亡き祖父のことを思います。
今から19年前の9月、夏の暑さが和らぎ朝晩は肌寒さを感じる頃、祖父が往生しました。私のことを大変可愛がってくれた祖父。私は祖父のことが大好きでした。そんな祖父と二度と会えなくなることが本当に悲しかったのです。
深い悲しみの中、過ぎてゆく涙なみだのお通夜や葬儀. . .
その時に、「【倶会一処】また会えるお浄土という世界があるんだよ」叔父が教えてくれた言葉が、会えない悲しみを抱えた私の心に響いてきました。しかし、その一方で、「今会いたいのに…。会えるのはまだ先か。」という思いもあり、寂しさを感じていました。
それから16年の月日が経ち、祖父の十七回忌をお勤めさせていただきました。その際、たまたま新聞の記事で見た、「今生きることが、もういない人によって支えられる。」という言葉に触れ、涙が溢れました。それまで私は、祖父はもういない。会えるのはずっと先のことだと勝手に思っていました。しかし、この言葉を通して今この瞬間も支えてくれていると気付かされたのです。祖父を「見えないからいない人」と決めつけていた私がいました。
お通夜や葬儀の時に流した涙と十七回忌の時に流した涙とでは、はたから見れば同じ涙です。でも意味が違いました。十七回忌の時の涙は、悲しみだけの涙ではなく、大きな支えの中で安心できる、よろこびを含んだ涙でした。「見えないからいない」と思っていた祖父が、仏様となって、気付けば今までずっと私を支えてくれていたのです。
「見えないからいない」としか思えない私に、今も支えてくれる存在として感じられるよう阿弥陀様は、お浄土という世界をお作りくださいました。お浄土を聞かせて頂いてなければ、祖父は「もういなくなった」ままで、今を支える存在、心を通わす存在として感じられていなかったでしょう。だからといって、その悲しみがなくなるのではありません。深い悲しみがあるからこそ、今生きる私の人生を底から支えてくださる存在に出遇わせて頂くのであります。
本願寺派布教使 渡辺 有