『白牡丹と いふといへども 紅ほのか』
出典:高浜虚子
京都の5月に見ごろを迎える花の一つ、牡丹。
本願寺や大谷本廟の欄間にも彫られている牡丹の花を詠んだ俳句に、
白牡丹と いふといへども 紅ほのか
出典:高浜虚子
高浜虚子 51歳のときのものがあります。
「白牡丹という名前の花ではあるが、よく見れば紅い色がほのかに差しているではないか」という気付きと、花びらの柔らかな表情が愛おしく詠まれています。
しかし、なぜ虚子は、その句風である写実的な描写をまるで含まない「いふといへども」という七音を、俳句という限られた字数の中で大胆に詠んでいるのか…。
どうやら虚子は、誰もが抱きうる「白牡丹は、白い」という先入観を一度排して
目の前の牡丹の花をよくよく見澄まし、思索と訂正をするために要したその時間のゆらぎをあえてこの七音に詠みこんだのであろうとされています。
私たちも様々な事物をただ眺めるのではなく、仏法を聞くことを通して、じっくりと見つめていく中で思いがけない気付きや豊かな感動を覚えることがあるのではないでしょうか。
“私の人生・私の命”と思っていたけれど、でも、実は…
私を育ててくれた人がいて、私を支えてくれた人がいて、私を勇気づけ、助けてくれたような人が何人もいてくれたはずです。その時、私に向けられた願いがあり、 数多、様々なご恩があればこその、今のこの命。さらに、先立っていかれたその大切なお方は、生前のご恩だけではありません。
いまはその姿を直接には見ることができずとも、仏さまとなって「阿弥陀さまの教えをどうか聞いて欲しい」と私のために願い、導きはたらいてくださってあります。
その導きに促されて聞かせていただく阿弥陀さまの願い。「あなたを支え続けたい、孤独にはさせない。必ずやその命、仏としてすくい取っていきたい…」と久遠の昔から、“南無阿弥陀仏”の響きとなってはたらき通しでいらっしゃいます。
“私の人生・私の命”と思っていたものが、実は大いなる願いの中で彩り輝くただならぬ命であったということの喜びを、仏法を聞かせていただく中に思うのです。
本願寺派布教使 渡辺雅俊