大谷本廟について

法要行事 花文字

お彼岸期間中(春季・秋季)は皆様からお供えいただいたお花を用い、仏教用語を花文字にて作成しております。是非ともご参拝いただき、明著堂前の鮮やかな花文字をご覧ください。

平成29年 秋季彼岸会「和顔愛語(わげんあいご)

 「仏説無量寿経」のなかに、和顔愛語という言葉があります。

 やわらかな笑顔とやさしい言葉で人に接することの大切さを教えてくださる言葉で、自分も相手も幸せになることが出来ます。
にこやかな赤ちゃんの顔を眺めていると、ただそれだけで、心がとても穏やかになります。逆に、相手から怒った表情や、きつい言葉をかけられると、こちらも身構えてしまいます。たとえ、こちらに非があったとしても、決して良い気分にはなれません。

 もちろん、笑顔や優しい言葉かけがすぐに身につくというものではないかもしれません。

 しかし、その努力をするところにこそ、大きな意味があるように思えます。

 ご門主様は、伝灯奉告法要のご親教のなかで、念仏者の指針として、和顔愛語という生き方を勧められ、「たとえ、それらが仏様の真似事(まねごと)といわれようとも、ありのままの真実に教え導かれて、そのように志して生きる人間にそだてられるのです。」とお示しくださいました。

 今日こうしてお彼岸のお参りをされました皆様方におかれましては、どうか本日のご縁を大切にされ、日々の生活のなかで、和顔愛語の心持で日暮しいただきますよう念じあげます。

和顔
愛語

 

平成29年 春季彼岸会「和顔愛語(わげんあいご)

 仏教には、和顔愛語という言葉があります。仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)のなかにある言葉です。なごやかな笑顔と相手を思いやるあたたかな話し方、やさしい言葉で人に接すれば、他人の心をおだやかにできることを教えて下さる大切な言葉です。

 私たちは日常生活を送るなか、多くの方々と出会うわけですが、もし私が嫌な表情や不機嫌そうな言葉で相手に接したなら、その嫌な気持ちは間違いなく相手に伝わります。人はいかりにはいかりをもって応酬してしまいます。それでは、良き人間関係を築くことなどできるはずがありませんし、嫌な気分で1日を過ごさなくてはなりません。

 昔と比べると随分と物が豊かになったと言われますが、はたして心の豊かさはどうでしょうか。悲しいことに、人間の欲望というものには限界がありません。

 私たちは毎日の食事でたくさんの命をいただいています。しかし、お腹が満たされると、今度は味の善し悪しを気にするようになってしまいます。

 同じおかずが続くとつい文句がでてくる、おかずが少ないといって愚痴を言ってしまう。そこに感謝の心はありません。物の豊かさと反比例するように心は貧しくなっていくような気がします。

 そんな時代だからこそ、和顔愛語で人に接することがとても大事なことです。ほんの些細なことかもしれませんが、なごやかな笑顔とやさしい言葉は、相手を心豊かにし、幸せな気持ちにしてくれます。間違いなく、豊かな人間関係を築くことができます。

和顔
愛語

平成28年 春季彼岸会「念仏往生(ねんぶつおうじょう)

 春の花文字は、念仏往生という言葉です。この言葉は、浄土真宗のみ教えの根本をなす大切な言葉です。

 浄土真宗聖典(註釈版)の巻末註によりますと、念仏往生とは、「阿弥陀仏より選択回向(せんじゃくえこう)された名号を信じて称える行が往生の業因であることをいう。」と説明されています。

 親鸞聖人は、凡夫の私がそのままで救われるみ教えを顕かにされました。凡夫とは、欲・怒り・愚痴などの悪しき心(煩悩(ぼんのう))から離れることのできない私のありのままの姿です。自らの力では、決して仏になることなどできないのです。

 阿弥陀如来は、そんなあなただからこそ、救わずにはおれないと、たとえ私たちが、その救いに背をむけようとも、必ず摂めとって決して捨てないと南無阿弥陀仏のみ名にあらゆる功徳を込めて、「必ず救う、われにまかせよ」と喚び続けていてくださるのです。

 その南無阿弥陀仏を疑うことなく受け取らせていただく、阿弥陀如来のお救いのはたらきを信じる心ひとつで如来の浄土に生まれる身とならせていただくのです。

 そして、そのよろこびは南無阿弥陀仏のお念仏となってわたしの口からでてくださるのです。

 心に信心、口に称名、阿弥陀如来のお徳をたたえ、お念仏の薫る日暮らしをさせていただきましょう。

念仏
往生

平成27年 秋季彼岸会「愛山護法(あいざんごほう)

 秋のお彼岸の花文字は、愛山護法です。愛山の山とは、お寺の名前の前につける称号「山号」のことで、例えば西本願寺の正式名称は、龍谷山本願寺と申します。大谷本廟の仏殿の正面には「龍谷山」という山号額が掲げられています。

 愛山とは、親鸞聖人のみ教えの聞法道場である私たちのご本山である本願寺を大切にしますという意味です。

 そして護法とは、私たちの人生の大切な道標(みちしるべ)であります親鸞聖人が顕(あきら)かにされた南無阿弥陀仏のお念仏のみ教えを大切に護持してまいりますという意味です。

 この愛山護法の思いを持って、私たちの先輩かたがたは、さまざまなご縁を通じて本願寺に足をはこばれ、あるいはご懇念をもって、長年にわたって本願寺を今日まで護持してこられました。

 そこには、私たちの大切なご先祖を偲(しの)ばせていただくなかで、ご先祖のおかげで私が只今、こうして浄土真宗のみ教えに出遇うことができたことを喜び、そしてお念仏の道場としてのお寺が、永代にわたって存続し、浄土真宗のみ教え、お念仏のみ教えが、私たちの子や孫の代まで伝わっていくようにという尊い願いがこめられています。

愛山
護法

平成27年 春季彼岸会「白色白光(びゃくしきびゃっこう)

 春の彼岸の花文字は、白色白光です。この言葉は、仏説阿弥陀経のなかにある言葉です。

 「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」、お浄土に咲く蓮の花は、青色の花は青く光り、黄色の花は黄色に光り、赤色の花は赤く光り、白色の花は白く光り輝いている。

 それぞれの花がそれぞれの持ち味を充分に発揮して、しかもお互い決して他の花の邪魔をしないのです。

 私たちは、私と色合いの違った人、私の意見と違う考えの人、私の意見に反対するような人に対しては、ともすれば自分の都合の悪いことは聞かないように、その人を遠ざけたり、自分の意見を押しつけようとします。相手の色をすべて否定して、自分の色一色に染めようとしてしまいます。

 これに対して、阿弥陀如来さまの世界、お浄土は、お互いがお互いを認め合う世界、お互いがお互いを照らし合う世界です。
阿弥陀如来さまは、私たちは、みんな違っていいのですよと教えてくださっています。

 そして、そんな自己中心な私たちを、それぞれが互いの良さを認めあいながら、一つになって生きる調和のある世界、お浄土(彼岸)へ生まれさせてやりたいと願い、南無阿弥陀仏のお念仏となって、「必ず救うぞ、われにまかせよ」といつも喚(よ)びつづけていてくださるのです。

白色
白光

平成26年 秋季彼岸会「即得往生(そくとくおうじょう)

 秋の彼岸の花文字は、即得往生という言葉です。一般に往生といえば、私が死んだ後の行先の問題、ずっと未来の救いと思われがちですが、そうではなく、現実の問題、今生きているこの時の私の救いこそが問題なのですよと親鸞聖人は教えてくださいました。

 往生は、この私が真実の世界、お浄土に生まれることですが、そのお浄土への道は、けっして私のこのいのち終わるときからはじまるのではありません。未来の救いより、今この時の救いの方が私たちには大切な筈です。

阿弥陀如来さまは、けっして休むことなく今まさにこの時に、私のために働いていてくださる、そのお救いに気づかせていただく、阿弥陀如来さまの「必ず救う、われにまかせよ」というよび声が南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)のお念仏となって私のもとに至り届いていてくださることに気づかせていただき、疑いなくそのお救いを受け取らせていただくその時(浄土真宗ではこれを信心を得ると申します)、往生浄土が定まるのです。

 そのことをお示しいただいた言葉が即得往生という言葉です。

 阿弥陀如来さまに導かれながら、彼の岸、お浄土への道を間違いなく歩ませていただきましょう。

即得
往生

平成26年 春季彼岸会「和顔愛語(わげんあいご)

 春の花文字は、和顔愛語です。この言葉は仏説無量寿経という経典のなかにある言葉です。おだやかな笑顔と相手を思いやるあたたかな話し方、やさしい言葉で人に接すれば、それだけで他人の心をおだやかにすることができる立派な布施行(ほどこし)ですよということを教えてくださるとても大切な言葉です。

 皆さんもそうだと思いますが、幼い赤ちゃんの笑顔やしぐさをみていると、こちらまで自然と癒されます。とても安らかな心持ちとなることができます。

 私たちは社会生活を送る中で、数多くの方々と出会うわけですが、もし私がいやな表情や不機嫌そうな言葉で相手に接したならば、そのいやな気持ちはそのまま相手に伝わるはずです。

人はいかりにはいかりをもって応酬してしまいます。それでは、良き人間関係を築くことなどできるはずがありません。お互いにとてもいやな気分で日暮しをしなくてはなりません。

 だからこそ、和顔愛語で人に接することがとても大事なことです。ほんの些細なことかもしれませんが、このおだやかな笑顔とやさしい言葉は、相手を心豊かにし、幸せな気持ちにしてくれます。間違いなく、豊かな人間関係を築くことができます。

 和顔愛語の心持ちで日暮しいただきますよう念じあげます。

和顔
愛語

平成25年 秋季彼岸会「往生浄土(おうじょうじょうど)

 秋のお彼岸の花文字は、往生浄土です。この言葉は浄土真宗のみ教えの根本をあらわすとても大切な言葉です。

 しかしながら大変残念なことに、世間では「大往生を遂げる」とか「雪で車が立往生した」というように、この往生という言葉は単に人が死ぬことや困った状態、物事に行き詰まってどうしようもなくなった状態を指す言葉として使用されているようです。

 しかし、本来の往生の意味は「往(ゆ)き生(う)まれる」の字の通り、私が娑婆(しゃば)世界からお浄土へ、阿弥陀如来さまのおはたらきによって生まれさせていただき、仏とならせていただくことをあらわす言葉です。

 私が今住んでいるこの世界、迷いの世界であるこちらの岸(此岸(しがん))から、真実の世界であるお浄土、向こうの岸(彼岸(ひがん))へと阿弥陀如来さまがつくってくださった大きな願いの船にのせていただいて渡らせていただくのです。

 そして、その彼の岸、お浄土への道は、私のいのち終わるときにはじまるのではありません。今、阿弥陀如来さまの「必ず救う、われにまかせよ」というよび声が南無阿弥陀仏のお念仏となってはたらいていてくださることに気づかせていただくその時に、私のこの人生は、お浄土へと向かう確かなもの、無常の命を生きながらも、阿弥陀如来さまに導かれながら、一歩一歩間違いなくお浄土へと歩ませていただける輝かしい人生となります。

往生
浄土

平成25年 春季彼岸会「西方浄土(さいほうじょうど)

 春のお彼岸の花文字は、西方浄土です。阿弥陀如来様(あみだにょらいさま)の世界、お浄土は西にあるというように聞かれたことのある方もおられると思います。

 このことについて、お釈迦様(しゃかさま)は仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)の中で、「これより西方(さいほう)に、十万億の仏土(じゅうまんおくぶつど)を過ぎて世界あり、名(な)づけて極楽(ごくらく)といふ。」とお示しくださっております。

では、お浄土(極楽)は、どうして西方にあるとされているのでしょうか。

 それは、私たちが、何かしら形あるものがないと、そのものの存在を受け入れることができないからです。お浄土は、私たちの知識では、到底はかり知ることのできない煩悩(ぼんのう)の穢(けが)れなき清らかなる世界です。それゆえ、お浄土をこの私に知らしめるために、具体的な方向を指し示してくださったのです。

 西方とは、本来一定の方向に定められることのできないお浄土を、凡夫である私たちに合わせてお釈迦様がお示しくださった私の人生の目的地、行先です。

 そして、西というのは、一日の始まりに太陽が東から昇り、一日の終わりには西へ沈むように、私のいのちが終わる時の私の進むべき世界、道筋を指し示していてくださいます。

 阿弥陀如来様は、迷いのこの世から真実の世界へと生まれさせたいと願い、私のために西方浄土を建立してくださったのです。

西方
浄土

平成24年 秋季彼岸会「倶会一処(くえいっしょ)

 仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)のなかに「倶会一処」という言葉があります。大谷墓地のお墓参りの際に正面に「倶会一処」と彫られた墓石を見たことがある方もいらっしゃると思います。この言葉は、ともにひとつのところでお会いしましょうという意味です。ともに会えるところとは、阿弥陀如来(あみだにょらい)さまのつくられたさとりの世界、お浄土(じょうど)という世界です。

 大変に悲しいことですが、私達はこの世に生まれてきた限りは、愛しい人、大切な人達と必ず別れていかなくてはなりません。誰一人として例外はありません。そして、その悲しい別れは、何の前ぶれもなく起こる場合も度々あります。突然の別れは、さびしくて、とてもつらいものです。

 でも、私達には、必ずまた会える世界があります。それがお浄土です。人生を歩んでいくなかで、様々な悲しい別れを経験しなくてはならない私達でありますが、また必ず会える世界があるからこそ、今を頑張ることができる。また会えると思えるから、さびしさも少しは和らぐことができるのです。

 そのお浄土への道は、いのち終わるときにはじまるのではありません。今、阿弥陀如来さまの「必ず救う、われにまかせよ」というよび声が南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)のお念仏となってはたらいていてくださることに気づかせていただくその時に、私のこの人生は、お浄土へと向かう確かなものとなります。

 「倶会一処」、必ずお浄土で会える人生を間違いなく歩ませていただきましょう。

平成24年 春季彼岸会「報恩謝徳(ほうおんしゃとく)

 日々、『おかげさま』『ありがとう』の報恩謝徳の生活を送ることができたら、こんな幸福は無いと思います。

 インドと中国に挟まれた、九州ぐらいの面積の国ブータン王国は、国民の96.7%が「幸福」と回答したそうです(2005年ブータン政府国勢調査)。ブータン王国では、私たちが目標としてきた国民総生産(GNP)で示されるような金銭的・物質的な豊かさを追い求めるのではなく、国民総幸福量(GNH)の精神的・心理的幸福を国是とした政策を取っていることで注目を集めています。

 経済成長率が高く、所得が多く、物量潤沢(じゅんたく)なことが本当に幸せなのか。医療や生活環境の高度な先進国で、人生に悩む人が多いのはなぜなのか。人との絆が薄く、家族愛が感じられず、孤立化し自死へと追い込まれていく現在の社会構造。GNP肥大を追い求めることの幻想に、ようやく私たちは気づきはじめています。

 ブータン王国は、人々の習慣など生活のいたるところに仏教が根付いている仏教国であり、怒り・不満・嫉妬の心から、寛容・満足・慈愛に満ちた国を目指しているといわれています。

 日本も仏教国といわれ、つい半世紀前までは、「おかげさまです」「もったいないことです」「お互いさま」「ありがたいことでございます」といった、麗(うるわ)しい言葉が、生活の中に溶け込んでいました。

 阿弥陀如来、親鸞聖人、そして代々教えを伝えてくださったご先祖への報恩謝徳を要(かなめ)とし基礎に据えて、前門さまが「念仏の道は『おかげさま』と生かされる道であり、『ありがとう』と生きぬく道であります」(下記参照)とお示しくださいました日暮しをさせてもらいましょう。

昭和48年(1973)、大谷光照前門さま(当時ご門主)は、親鸞聖人御誕生800年・立教開宗750年慶讃法要御満座のご消息にて、「このような時代に生きる現代人の不安と混迷は、聖人のお勧めくださった念仏の道によって、はじめて乗り越えることができるものと信じます。念仏の道は『おかげさま』と生かされる道であり、『ありがとう』と生きぬく道であります」とお示しになりました。

報恩
謝徳

 

 

平成23年 秋季彼岸会「世(よ)のなか安穏(あんのん)なれ」

 この言葉は、親鸞聖人が、関東のお弟子に出されたお手紙の一節です。親鸞聖人750回大遠忌法要のスローガンとさせていただきました。聖人から私たちへの深い願いのメッセージとして、私たちは、そのおこころをしっかり拝受致したいものです。

 今の世のなかは、環境・経済・家庭などで、さまざま問題が起こり、自死される方が年間約3万という構造的社会状況で、人びとの不安と苦悩は深まっております。不安や苦悩のもとをたずねますと、日本人全般にわたって、心のあたたかさ・ぬくもりが薄くなっているからではないでしょうか。人と人とのつきあいが面倒くさく、自己中心的な考えで、他の人のことに思いが及ばない。いわゆる絶縁志向が孤立化をうみ、自らを苦しめている世のなかではないかと思われます。

 阿弥陀如来の前に静かに座り、合掌し、ゆったりとお念仏申しましょう。ゆっくりと頭(こうべ)をたれてお参りさせていただきましょう。そして、如来のまことの智慧とあたたかい慈悲の声を心で聞いてみましょう。

阿弥陀如来の智慧と慈悲にあわせていただきますと、自分が生かされてあることに気づき「ありがとうございます」と、すべてにお礼が申せましょう。自分のいのちはもとより沢山のものに、すでに恵まれてあることに目覚め、「もったいないことです」と感謝の念が起こりましょう。
人間はひとりでは、生きてはいけない不思議なるご縁に思い到るとき「お互いさまですね」とあたたかい心で、ひとさまに接せましょう。
目には見えませんが仏の慈愛を感ずるとき「お蔭さまです」と申せましょう。
 
自分ひとりだけの仏法ではなく、多くの人に聖人の願いを伝えて、世のなか全体が安穏でありたいものです。

大谷本廟

『親鸞聖人御消息』第25通―「わが身(み)の往生(おうじょう) 一定(いちじょう)とおぼしめさんひとは、仏(ぶつ)のご恩(おん)をおぼしめさんに、ご報恩(ほうおん)のために、御念仏(おんねんぶつ)こころにいれて申(もう)して、世(よ)のなか安穏(あんのん)なれ、仏法(ぶっぽう)ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候(そうろ)う。」

平成23年 春季彼岸会「快楽安穏(けらくあんのん)

 「快楽安穏」は、迷いの私を悟らしめ、真実の意味の「快(こころよ)く安(やす)らかに」させようという、阿弥陀さまの願いをあらわす言葉です。
  日常によくお勤めいたします「讃仏偈(さんぶつげ)」に「已到我国(いとうがこく) 快楽安穏(けらくあんのん)(私の国にうまれたなら、みな快く安らかにしよう)」とあります。
  「快楽安穏」は、私たちの欲望が満たされた「快楽(かいらく)」や、ただ安らかで平穏な「安穏」とはまったく違います。迷いの私たちは尽きることのない欲望を持ち、自ら苦しみをつくり、不安や悲しみに打ちひしがれて、本当の意味での「安穏」はありません。
 迷いのなかに生きていながら、迷いを迷いとも知らず、苦しみを深めるだけの人生を歩んでいる私に、阿弥陀さまは「どんな人生であろうと、迷いを離れ苦しみを滅(めっ)した、快楽安穏(けらくあんのん)なる悟りの仏と成らせよう、必ず救う、我にまかせよ」とはたらきかけ、いま支えてくださっています。
 この阿弥陀さまの本願の救いを、聞き、よろこばせていただきましょう。

 

平成22年 秋季彼岸会「慶喜一念(きょうきいちねん)

 この「慶喜一念(きょうきいちねん)」の言葉は、阿弥陀如来(あみだにょらい)より他力(たりき)の信心(しんじん)(慶喜心(きょうきしん))を恵まれた最初の時(一念(いちねん))を意味しています。阿弥陀如来(あみだにょらい)は「われをたのめ(南無(なも))必ず救う(阿弥陀仏(あみだぶつ))」と、絶(た)えず私たちに喚(よ)び続けておられます。この阿弥陀如来(あみだにょらい)の願いを聞きひらく時、煩悩(ぼんのう)を抱(かか)えた私が必ず仏(ほとけ)となる身(み)に定(さだ)まり、お浄土(じょうど)への人生を歩ませていただくのです。そこには確かなよりどころを得(え)た、大いなる喜びが恵まれています。

平成22年 秋季彼岸会「慶喜一念(きょうきいちねん)」
平成22年 秋季彼岸会「慶喜一念(きょうきいちねん)」

 

平成22年 春季彼岸会「聞其名号(もんごみょうごう)

 「聞其名号(もんごみょうごう)」とは『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』に、「聞其名号信心歓喜(しんじんかんぎ)(その名号を聞きて信心歓喜せんこと)」と示されている言葉です。親鸞聖人(しんらんしょうにん)はこの本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)の言葉を「「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と述べられています。
 阿弥陀如来(あみだにょらい)は煩悩(ぼんのう)という迷いの心を中心に生きる私たちを救い、さとりの世界に導く為に、救いの法である名号を完成され、「われをたのめ(南無(なも))必ず救う(阿弥陀仏(あみだぶつ))」と喚び続けておられます。これは阿弥陀如来が仏のいのちをかけて成就された救いの法であり、いま私の上に恵まれている「南無阿弥陀仏」のいわれ(仏願の生起本末)であります。

平成22年 春季彼岸会「聞其名号(もんごみょうごう)」
平成22年 春季彼岸会「聞其名号(もんごみょうごう)」

 

平成21年 秋季彼岸会「法味愛楽(ほうみあいぎょう)」>

 天親菩薩(てんじんぼさつ)は『浄土論(じょうどろん)』のなかで「如来淨華(にょらいじょうけ)の衆は、仏法(ぶっぽう)の味はひを愛楽(あいぎょう)し、禅三昧(ぜんざんまい)を食となす」と述べられます。阿弥陀如来(あみだにょらい)は浄土建立(じょうどこんりゅう)に当たって、私たち迷いの世界では食べるものに貧富の差があることに心を痛められ、仏国土(ぶっこくど)では常に仏法(ぶっぽう)の味を愛楽(あいぎょう)し、禅三昧(ぜんざんまい)を食とするようにして、他に食を求める労苦がないようにという願いを興(お)こされたのでした。これがこの言葉のもともとの意味ですが、一般に「仏法(ぶっぽう)を聞き味わうことを喜ばせていただく」という「お聴聞(ちょうもん)の歓び」を表す言葉として通用しています。

平成21年 秋季彼岸会「法味愛楽(ほうみあいぎょう)」>
平成21年 秋季彼岸会「法味愛楽(ほうみあいぎょう)」>

 

<平成21年 春季彼岸会「樹心佛地(じゅしんぶっち)」>

 この言葉は、親鸞聖人の主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の最後に出ており、そこには「心を弘誓(ぐぜい)の佛地(ぶっち)に樹(た)て」としめされ、阿弥陀如来の本願にであえたよろこびを味わい深くのべられています。ここで「樹」の字を「たてる」と読むことに注目します。私のこころは、浮き草のように風に吹かれ水に流され定まることがありません。そのような私たちを救おうと阿弥陀如来は、願い(本願)をおこしてくださっています。この本願のこころを疑いなくいただくままが他力の信心です。そして、そこにひらかれるゆるぎないあり方が、見えないけれども地中深くに根をはる樹木のように「樹心佛地(じゅしんぶっち)」と表現されています。

<平成21年 春季彼岸会「樹心佛地(じゅしんぶっち)」>
<平成21年 春季彼岸会「樹心佛地(じゅしんぶっち)」>

 

<平成20年 秋季彼岸会「兵戈無用(ひょうがむよう)」>

 「兵(ひょう)」とは、「戈(が)」とは武器を意味する言葉です。この言葉は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)が真実の教えを説いたお経とされた『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』に「仏の歩むところ、あらゆるところの、あらゆる人々はみな、その教えの尊さを思わない者はいない。人々のこころは、豊かに安らかであり、兵士や武器を全く必要としない世界である」と示されています。「兵戈(ひょうが)無用(むよう)」などというと、それだけで理想論と片付けられてしまいそうですが、この世界こそ全仏教者のめざすべき世界でありましょう。親鸞聖人がお手紙の中で、「御念仏(おねんぶつ)こころにいれて申して、世の中安穏(あんのん)なれ、仏法(ぶっぽう)ひろまれ」と申されました。まさにこの「兵戈(ひょうが)無用(むよう)」の世界を願っての歩みが念仏者の生活であるということを示されたお言葉でした。

<平成20年 秋季彼岸会「兵戈無用(ひょうがむよう)」>
<平成20年 秋季彼岸会「兵戈無用(ひょうがむよう)」>

 

<平成20年 春季彼岸会「往還回向(おうげんえこう)」>

 『正信偈』に「往還回向(おうげんえこう)由他力(ゆたりき)」というお言葉があります。往相(おうそう)・還相(げんそう)ともに阿弥陀如来からの回向、即ちめぐまれ、与えられるのが浄土真宗です。往相とは、お浄土に往(ゆ)き生(う)まれて、仏と成ることであります。還相とは、仏となったものの必然として、迷えるものを救済することです。この私の身の上に、往相・還相を実現してやりたいと、阿弥陀如来はご自身の積まれた善根(ぜんごん)功徳(くどく)のすべてを「南無阿弥陀仏」と私に回向してくださっています。

<平成20年 春季彼岸会「往還回向(おうげんえこう)」>
<平成20年 春季彼岸会「往還回向(おうげんえこう)」>

 

平成19年以前の花文字

平成19年 秋季彼岸会「安心(あんしん)決定(けつじょう)」
平成19年 春季彼岸会「選択(せんじゃく本願ほんがん)」
平成18年 秋季彼岸会「唯順(ゆいじゅん)祖教(そきょう)」
平成18年 春季彼岸会「光明(こうみょう)遍照(へんしょう)」
平成17年 秋季彼岸会「安養(あんにょう)浄土(じょうど)」
平成17年 春季彼岸会「真実(しんじつ)信心(しんじん)」
平成16年 秋季彼岸会「至心(ししん)信楽(しんぎょう)」
平成16年 春季彼岸会「歓喜(かんき)賀慶(がきょう)」
平成15年 秋季彼岸会「信心(しんじん)歓喜(かんぎ)」
平成15年 春季彼岸会「響流(こうる)十方(じっぽう)」
平成14年 秋季彼岸会「遠慶(おんきょう)宿縁(しゅくえん)」
平成14年 春季彼岸会「他力(たりき)本願(ほんがん)」
平成13年 秋季彼岸会「光顔(こうげん)巍巍(ぎぎ)」
平成13年 春季彼岸会「當相(とうそう)敬愛(きょうあい)」
平成12年 秋季彼岸会「淤泥(おでい)正蓮(しょうれん)」
平成12年 春季彼岸会「転迷(てんめい)開悟(かいご)」

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