

日々、『おかげさま』『ありがとう』の報恩謝徳の生活を送ることができたら、こんな幸福は無いと思います。
インドと中国に挟まれた、九州ぐらいの面積の国ブータン王国は、国民の96.7%が「幸福」と回答したそうです(2005年ブータン政府国勢調査)。ブータン王国では、私たちが目標としてきた国民総生産(GNP)で示されるような金銭的・物質的な豊かさを追い求めるのではなく、国民総幸福量(GNH)の精神的・心理的幸福を国是とした政策を取っていることで注目を集めています。
経済成長率が高く、所得が多く、物量潤沢(じゅんたく)なことが本当に幸せなのか。医療や生活環境の高度な先進国で、人生に悩む人が多いのはなぜなのか。人との絆が薄く、家族愛が感じられず、孤立化し自死へと追い込まれていく現在の社会構造。GNP肥大を追い求めることの幻想に、ようやく私たちは気づきはじめています。
ブータン王国は、人々の習慣など生活のいたるところに仏教が根付いている仏教国であり、怒り・不満・嫉妬の心から、寛容・満足・慈愛に満ちた国を目指しているといわれています。
日本も仏教国といわれ、つい半世紀前までは、「おかげさまです」「もったいないことです」「お互いさま」「ありがたいことでございます」といった、麗(うるわ)しい言葉が、生活の中に溶け込んでいました。
阿弥陀如来、親鸞聖人、そして代々教えを伝えてくださったご先祖への報恩謝徳を要(かなめ)とし基礎に据えて、前門さまが「念仏の道は『おかげさま』と生かされる道であり、『ありがとう』と生きぬく道であります」(下記参照)とお示しくださいました日暮しをさせてもらいましょう。
昭和48年(1973)、大谷光照前門さま(当時ご門主)は、親鸞聖人御誕生800年・立教開宗750年慶讃法要御満座のご消息にて、「このような時代に生きる現代人の不安と混迷は、聖人のお勧めくださった念仏の道によって、はじめて乗り越えることができるものと信じます。念仏の道は『おかげさま』と生かされる道であり、『ありがとう』と生きぬく道であります」とお示しになりました。


この言葉は、親鸞聖人が、関東のお弟子に出されたお手紙の一節です。親鸞聖人750回大遠忌法要のスローガンとさせていただきました。聖人から私たちへの深い願いのメッセージとして、私たちは、そのおこころをしっかり拝受致したいものです。
今の世のなかは、環境・経済・家庭などで、さまざま問題が起こり、自死される方が年間約3万という構造的社会状況で、人びとの不安と苦悩は深まっております。不安や苦悩のもとをたずねますと、日本人全般にわたって、心のあたたかさ・ぬくもりが薄くなっているからではないでしょうか。人と人とのつきあいが面倒くさく、自己中心的な考えで、他の人のことに思いが及ばない。いわゆる絶縁志向が孤立化をうみ、自らを苦しめている世のなかではないかと思われます。
阿弥陀如来の前に静かに座り、合掌し、ゆったりとお念仏申しましょう。ゆっくりと頭(こうべ)をたれてお参りさせていただきましょう。そして、如来のまことの智慧とあたたかい慈悲の声を心で聞いてみましょう。
阿弥陀如来の智慧と慈悲にあわせていただきますと、自分が生かされてあることに気づき「ありがとうございます」と、すべてにお礼が申せましょう。自分のいのちはもとより沢山のものに、すでに恵まれてあることに目覚め、「もったいないことです」と感謝の念が起こりましょう。
人間はひとりでは、生きてはいけない不思議なるご縁に思い到るとき「お互いさまですね」とあたたかい心で、ひとさまに接せましょう。
目には見えませんが仏の慈愛を感ずるとき「お蔭さまです」と申せましょう。
自分ひとりだけの仏法ではなく、多くの人に聖人の願いを伝えて、世のなか全体が安穏でありたいものです。
大谷本廟
『親鸞聖人御消息』第25通―「わが身(み)の往生(おうじょう) 一定(いちじょう)とおぼしめさんひとは、仏(ぶつ)のご恩(おん)をおぼしめさんに、ご報恩(ほうおん)のために、御念仏(おんねんぶつ)こころにいれて申(もう)して、世(よ)のなか安穏(あんのん)なれ、仏法(ぶっぽう)ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候(そうろ)う。」
「快楽安穏」は、迷いの私を悟らしめ、真実の意味の「快(こころよ)く安(やす)らかに」させようという、阿弥陀さまの願いをあらわす言葉です。
日常によくお勤めいたします「讃仏偈(さんぶつげ)」に「已到我国(いとうがこく) 快楽安穏(けらくあんのん)(私の国にうまれたなら、みな快く安らかにしよう)」とあります。
「快楽安穏」は、私たちの欲望が満たされた「快楽(かいらく)」や、ただ安らかで平穏な「安穏」とはまったく違います。迷いの私たちは尽きることのない欲望を持ち、自ら苦しみをつくり、不安や悲しみに打ちひしがれて、本当の意味での「安穏」はありません。
迷いのなかに生きていながら、迷いを迷いとも知らず、苦しみを深めるだけの人生を歩んでいる私に、阿弥陀さまは「どんな人生であろうと、迷いを離れ苦しみを滅(めっ)した、快楽安穏(けらくあんのん)なる悟りの仏と成らせよう、必ず救う、我にまかせよ」とはたらきかけ、いま支えてくださっています。
この阿弥陀さまの本願の救いを、聞き、よろこばせていただきましょう。


この「慶喜一念(きょうきいちねん)」の言葉は、阿弥陀如来(あみだにょらい)より他力(たりき)の信心(しんじん)(慶喜心(きょうきしん))を恵まれた最初の時(一念(いちねん))を意味しています。阿弥陀如来(あみだにょらい)は「われをたのめ(南無(なも))必ず救う(阿弥陀仏(あみだぶつ))」と、絶(た)えず私たちに喚(よ)び続けておられます。この阿弥陀如来(あみだにょらい)の願いを聞きひらく時、煩悩(ぼんのう)を抱(かか)えた私が必ず仏(ほとけ)となる身(み)に定(さだ)まり、お浄土(じょうど)への人生を歩ませていただくのです。そこには確かなよりどころを得(え)た、大いなる喜びが恵まれています。


「聞其名号(もんごみょうごう)」とは『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』に、「聞其名号信心歓喜(しんじんかんぎ)(その名号を聞きて信心歓喜せんこと)」と示されている言葉です。親鸞聖人(しんらんしょうにん)はこの本願成就文(ほんがんじょうじゅもん)の言葉を「「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と述べられています。
阿弥陀如来(あみだにょらい)は煩悩(ぼんのう)という迷いの心を中心に生きる私たちを救い、さとりの世界に導く為に、救いの法である名号を完成され、「われをたのめ(南無(なも))必ず救う(阿弥陀仏(あみだぶつ))」と喚び続けておられます。これは阿弥陀如来が仏のいのちをかけて成就された救いの法であり、いま私の上に恵まれている「南無阿弥陀仏」のいわれ(仏願の生起本末)であります。


天親菩薩(てんじんぼさつ)は『浄土論(じょうどろん)』のなかで「如来淨華(にょらいじょうけ)の衆は、仏法(ぶっぽう)の味はひを愛楽(あいぎょう)し、禅三昧(ぜんざんまい)を食となす」と述べられます。阿弥陀如来(あみだにょらい)は浄土建立(じょうどこんりゅう)に当たって、私たち迷いの世界では食べるものに貧富の差があることに心を痛められ、仏国土(ぶっこくど)では常に仏法(ぶっぽう)の味を愛楽(あいぎょう)し、禅三昧(ぜんざんまい)を食とするようにして、他に食を求める労苦がないようにという願いを興(お)こされたのでした。これがこの言葉のもともとの意味ですが、一般に「仏法(ぶっぽう)を聞き味わうことを喜ばせていただく」という「お聴聞(ちょうもん)の歓び」を表す言葉として通用しています。


この言葉は、親鸞聖人の主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の最後に出ており、そこには「心を弘誓(ぐぜい)の佛地(ぶっち)に樹(た)て」としめされ、阿弥陀如来の本願にであえたよろこびを味わい深くのべられています。ここで「樹」の字を「たてる」と読むことに注目します。私のこころは、浮き草のように風に吹かれ水に流され定まることがありません。そのような私たちを救おうと阿弥陀如来は、願い(本願)をおこしてくださっています。この本願のこころを疑いなくいただくままが他力の信心です。そして、そこにひらかれるゆるぎないあり方が、見えないけれども地中深くに根をはる樹木のように「樹心佛地(じゅしんぶっち)」と表現されています。


「兵(ひょう)」とは、「戈(が)」とは武器を意味する言葉です。この言葉は、親鸞聖人(しんらんしょうにん)が真実の教えを説いたお経とされた『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』に「仏の歩むところ、あらゆるところの、あらゆる人々はみな、その教えの尊さを思わない者はいない。人々のこころは、豊かに安らかであり、兵士や武器を全く必要としない世界である」と示されています。「兵戈(ひょうが)無用(むよう)」などというと、それだけで理想論と片付けられてしまいそうですが、この世界こそ全仏教者のめざすべき世界でありましょう。親鸞聖人がお手紙の中で、「御念仏(おねんぶつ)こころにいれて申して、世の中安穏(あんのん)なれ、仏法(ぶっぽう)ひろまれ」と申されました。まさにこの「兵戈(ひょうが)無用(むよう)」の世界を願っての歩みが念仏者の生活であるということを示されたお言葉でした。


『正信偈』に「往還回向(おうげんえこう)由他力(ゆたりき)」というお言葉があります。往相(おうそう)・還相(げんそう)ともに阿弥陀如来からの回向、即ちめぐまれ、与えられるのが浄土真宗です。往相とは、お浄土に往(ゆ)き生(う)まれて、仏と成ることであります。還相とは、仏となったものの必然として、迷えるものを救済することです。この私の身の上に、往相・還相を実現してやりたいと、阿弥陀如来はご自身の積まれた善根(ぜんごん)功徳(くどく)のすべてを「南無阿弥陀仏」と私に回向してくださっています。


平成19年 秋季彼岸会「安心(あんしん)決定(けつじょう)」
平成19年 春季彼岸会「選択(せんじゃく本願ほんがん)」
平成18年 秋季彼岸会「唯順(ゆいじゅん)祖教(そきょう)」
平成18年 春季彼岸会「光明(こうみょう)遍照(へんしょう)」
平成17年 秋季彼岸会「安養(あんにょう)浄土(じょうど)」
平成17年 春季彼岸会「真実(しんじつ)信心(しんじん)」
平成16年 秋季彼岸会「至心(ししん)信楽(しんぎょう)」
平成16年 春季彼岸会「歓喜(かんき)賀慶(がきょう)」
平成15年 秋季彼岸会「信心(しんじん)歓喜(かんぎ)」
平成15年 春季彼岸会「響流(こうる)十方(じっぽう)」
平成14年 秋季彼岸会「遠慶(おんきょう)宿縁(しゅくえん)」
平成14年 春季彼岸会「他力(たりき)本願(ほんがん)」
平成13年 秋季彼岸会「光顔(こうげん)巍巍(ぎぎ)」
平成13年 春季彼岸会「當相(とうそう)敬愛(きょうあい)」
平成12年 秋季彼岸会「淤泥(おでい)正蓮(しょうれん)」
平成12年 春季彼岸会「転迷(てんめい)開悟(かいご)」