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令和6年 春季彼岸会「智願海水」
このお言葉は浄土真宗の宗祖親鸞聖人のお書きになられた御和讃の一節のお言葉です。
弥陀の智願海水に
他力の信水いりぬれば
真実報土のならひにて
煩悩菩提一味なり
出典:『正像末和讃』(阿弥陀仏の本願の海に他力の信心の水が流れ込んだなら、真実の浄土にそなわるはたらきで、煩悩とさとりは一つの味となる。)
この智願海水とは、すべてを知り尽くしておいでになる阿弥陀さまの智慧のはたらきによって起こされたはてしない願いが、広く果てしない海のようであると例えられたお言葉です。親鸞聖人は他にも「本願海、大心海、功徳大宝海、清浄大海衆」など、「海」という言葉を用いて阿弥陀さまの広大な救いのはたらきを例えておられます。
この「海」という例えに表されるのは、全てのものを受け入れ、同じ一つのものとしていく大きなはたらきです。海の水は、どんな川から流れ込む水も受け入れ、同じ一つの味に変えてしまいます。綺麗な清流の真水も、泥が混じるような大河の濁流も、ひとたび海に流れ込むと、必ず塩水に変えられます。
同じように、阿弥陀さまの救いのはたらきも、すべての人を分け隔てなく受け入れ、おさめとって離しません。それは善人も悪人も、聖人と言われる人も、煩悩を抱える私たちも、必ず同じ浄土に迎えとられて、阿弥陀さまと同じさとりの身である仏にならせていただくのです。
阿弥陀さまの、この私の全てを受け止める海のようなはたらきに抱きとられた私たちは、抱えた煩悩はそのまま、お浄土で仏のさとりを得ることができます。そこに煩悩(私たちの迷い)と菩提(仏のさとり)がそのまま一つ(一味)になっていく世界が開かれていきます。そしてその全てを受け入れてくださる「われにまかせよ そのまま救う」阿弥陀さまの願いが今「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、私たちに届いています。
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令和5年 秋季彼岸会「倶会一処」
「倶会一処」という言葉は「仏説阿弥陀経」という経典に出てくる一節で、「ともに一つの処(お浄土)でお会いする」という意味です。私たちは「あう」という言葉に様々な漢字を当てて使っています。
この「会」という字を使う時には、「場所を決めて、対面する」という意味があり、「この世で別れがあったとしても、必ずまた阿弥陀さまのお浄土で会わせましょう。」という強い願いが込められた言葉として、浄土真宗の歴史の中で大切にされてきました。実際に大谷本廟内の墓地をはじめ、浄土真宗の墓地では墓石の正面に「倶会一処」と彫られたお墓を見ることができます。
私たちはこの世に生まれてきた限りは、愛しい人、大切な人達と必ず別れていかなくてはなりません。誰一人として例外はなく、悲しい別れは何の前触れもなく起こります。突然の別れは、淋しくとてもつらいものです。しかしそんな時に「必ずまた会える世界がある」という教えが、残された私たちにとって本当の心の支えとなっていくのです。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人も、ご自身の往生が近づくなかで、ご門弟の方へのお手紙で次のように仰っています。
「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」
この言葉は「私の体は、今は歳を取ってしまい、貴方よりきっと先に浄土へと往生する。だから浄土で必ず必ず待っているぞ」という意味です。このお言葉は親鸞聖人のお喜びの中から紡がれた言葉でありますが、同時にこの言葉が、残されてゆくご門弟の方にとってどれほど嬉しいものであったでしょうか。ご門弟の方々は親鸞聖人のこのお言葉を胸に、悲しい別れがあったとしてもより一層力強く親鸞聖人のみ教えを伝える人生を歩まれたのだと思います。
様々な悲しい別れを経験しなくてはならない私達ですが、また必ず会える世界をいただくことによって、今の私たちの人生が支えられていくのです。そして今、阿弥陀如来さまの「必ず救う、われにまかせよ」というよび声が南無阿弥陀仏のお念仏となってはたらいてくださるその中に、私のこの人生は、お浄土へと向かう確かなものとなります。
「倶会一処」必ずお浄土で会える人生を、共に歩ませていただきましょう。