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令和6年 秋季彼岸会「倶会一処」
「倶会一処(くえいっしょ)」とは、『仏説阿弥陀経』に出てくる一節で、書き下しでは「倶に一つの処で会う」と読みます。これは「同じ阿弥陀如来さまのお浄土でまた共に会わせていただく」という意味です。阿弥陀如来という仏さまは、この私を必ず浄土に往き生まれさせ仏にさせると願われ、今「南無阿弥陀仏」と私にはたらいてくださっています。私たちはその仏さまの願いを「南無阿弥陀仏」のお念仏の中に疑いなく聞かせていただき、いのち終えたら必ず、阿弥陀さまのはたらきによってお浄土に参らせていただくのです。大切な方とまた会える世界があるという教えは、時に悲しい別れを経験する私たちの生きる支えとなってくださいます。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人も、悲しい別れを経験された方でした。人生の師と仰ぐ法然聖人とは、いわれ無き罪によって今生の別れをされました。そんな別れの時、悲しみにくれる親鸞聖人へ法然上人がこのような歌を伝えられたそうです。
「 別れ路の さのみ嘆くな 法の友 また遇う国の ありと思えば」
「この世での別れを嘆くことはないぞ。阿弥陀様のお慈悲を頂く私たちは、又お浄土で出会わせていただく世界があるのだから」とのお言葉でした。
この言葉に支えられ、親鸞聖人は三十五歳で法然聖人と別れたのち、九十歳までお念仏の人生を送られました。そして親鸞聖人もまた、ご自身の往生が近づくなかで、ご門弟の方へのお手紙で次のように仰っています。
「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」
私の体は、今は歳を取ってしまい、貴方よりきっと先に浄土へと往生する。だから浄土で必ず必ず待っているぞ とお示しになったのです。ご自身がまた会える世界に支えられてきたからこそのお言葉と言えるでしょう。
人生の中で様々な悲しい別れを経験しなくてはならない私達ですが、また必ず会える世界によって、今の私たちの人生が支えられていくのです。 お浄土への道は、いのち終わるときに始まるのではありません。今、阿弥陀如来さまの「必ず救う、われにまかせよ」というよび声が「南無阿弥陀仏」のお念仏となってはたらいてくださるその中に、私のこの人生は、お浄土へと向かう確かなものとなります。お念仏申す人生を、共に歩ませていただきましょう。
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令和6年 春季彼岸会「智願海水」
このお言葉は浄土真宗の宗祖親鸞聖人のお書きになられた御和讃の一節のお言葉です。
弥陀の智願海水に
他力の信水いりぬれば
真実報土のならひにて
煩悩菩提一味なり
出典:『正像末和讃』(阿弥陀仏の本願の海に他力の信心の水が流れ込んだなら、真実の浄土にそなわるはたらきで、煩悩とさとりは一つの味となる。)
この智願海水とは、すべてを知り尽くしておいでになる阿弥陀さまの智慧のはたらきによって起こされたはてしない願いが、広く果てしない海のようであると例えられたお言葉です。親鸞聖人は他にも「本願海、大心海、功徳大宝海、清浄大海衆」など、「海」という言葉を用いて阿弥陀さまの広大な救いのはたらきを例えておられます。
この「海」という例えに表されるのは、全てのものを受け入れ、同じ一つのものとしていく大きなはたらきです。海の水は、どんな川から流れ込む水も受け入れ、同じ一つの味に変えてしまいます。綺麗な清流の真水も、泥が混じるような大河の濁流も、ひとたび海に流れ込むと、必ず塩水に変えられます。
同じように、阿弥陀さまの救いのはたらきも、すべての人を分け隔てなく受け入れ、おさめとって離しません。それは善人も悪人も、聖人と言われる人も、煩悩を抱える私たちも、必ず同じ浄土に迎えとられて、阿弥陀さまと同じさとりの身である仏にならせていただくのです。
阿弥陀さまの、この私の全てを受け止める海のようなはたらきに抱きとられた私たちは、抱えた煩悩はそのまま、お浄土で仏のさとりを得ることができます。そこに煩悩(私たちの迷い)と菩提(仏のさとり)がそのまま一つ(一味)になっていく世界が開かれていきます。そしてその全てを受け入れてくださる「われにまかせよ そのまま救う」阿弥陀さまの願いが今「南無阿弥陀仏」のお念仏となって、私たちに届いています。