『蓮池の 深さわするる 浮葉かな』
※出典:山本 荷兮

大谷本廟の蓮も8月のお盆の頃を過ぎますといよいよ終盤です。
そのピンク色の麗しい姿もそろそろ見納めかと思うと、一抹の寂しさを覚えます。
一方で、蓮の大きな葉が浮かぶ水面下には深い水が湛えられ、水の中というまた豊かな世界が広がっていることにまではなかなか思いが及びにくいのかもしれません。
岡山県倉敷市にある「大原美術館」には、フランスの画家 クロード・モネの『睡蓮』の絵が所蔵されています。睡蓮の花や葉が浮かんでいる水面にお日さまの煌びやかな光が無数に降り注いでいる様子は、観る人に生命の息吹を感じさせうる迫力があります。
ある時、美術館を訪れた一人の男の子がその絵を観て「あっ、カエルがいる」と言ったそうです。しかし、その絵の中にカエルの姿は一匹たりとも描かれていないのです。
美術館の職員は驚きをもって「えっ、カエルは、どこにいるかな?」とその男の子に尋ねました。すると、男の子はおよそこのように答えたそうです。
「いま、水の中を、泳いでいるよ!」
直接的には描かれていなくとも、活きいきと生きる蛙の命をそこに感じていく豊かさ。
翻って私は、ついつい目に見えるものこそ全てであるように思いながら生きているのではないか…。とある美術誌の中で出会ったこのお話から、考えさせられるのです。
たとえば、大切な方を失う悲しみはどこからくるのか。一つには、その方の笑顔や姿そのものを直接に見ることが出来なくなってしまったという寂寥感(せきりょうかん)にあるのではないでしょうか。「もう、会えない。でも、また会いたい」という寂しさ。
しかし、その寂しさを思う私に、阿弥陀さまは広く豊かな世界を教えてくださいます。
「その姿をいまはもう直接に見られなくなったとしても、どこか遠くのに世界へと行ってしまったのではありませんよ。お浄土という仏の世界に生まれ仏さまとなったそのお方は、もうすでにこの世界にかえってきて、あなたの命をご一緒くださり導いてくださっているのですよ。どうか同じお浄土へ参って来てほしい…と。」
今日こうして大谷本廟にお参りをし、お念仏を申していることも、先立たれた方がこのご縁を導いてくださっているはたらきの真っただ中にあるからではないでしょうか。
そうして南無阿弥陀仏の響きを通し、その懐かしい“命”と出会い直していく時に開かれていく世界は、私たちに悲しさ・寂しさで終始しない“いま”を見せてくれるのです。
それは「あなたを仏にしたい」という阿弥陀さまの願いがあってこその豊かな世界です。
蓮の浮き葉の下にはまた豊かな世界があるように、別れの悲しさ・寂しさを超えて開かれていくまた豊かな世界がある。しばし蓮の浮き葉を見つめながら味わってみませんか。