『山暮れて 紅葉の朱を 奪いけり』
出典:与謝蕪村
木々が赤や黄に美しく染まる季節を迎えました。遠くに見える秋色の山々や、目の前で見上げる真紅の葉に多くの方々が目を惹かれることと思います。そんな景色も、日が暮れて暗くなると色を失ってしまいます。太陽が昇り、沈んでいく。一日の流れとしてはごく自然なことですが、紅葉を楽しんでいた作者はその景色を「奪われた」と悲しんだのでしょう。その様子が私たちの命のすがたと重なりました。
太陽が必ず沈むように、私たちも必ず死を迎えていかねばなりません。ですが、いざ大切な方との別れに直面したとき、自然なこととして受け入れるのはなかなかできないことだと思います。ましてや、その別れが突然のことであったならば尚更です。そんな時には、「大切な人を奪われた」としか思えないこともあるのではないでしょうか。
今から8年前、父が68歳で今生の命を終えました。つい先日まで元気だった父との突然の別れ。その知らせを聞いた私は戸惑いでいっぱいになり、慌てて京都から三重の実家へ向かいます。夕刻に到着し、静かに眠っているような父を目にして、冷たくなった身体に触れた時、涙が溢れてきました。「いつかは別れがくる」と頭では分かったつもりでいましたが、父を奪われた現実は受け入れ難いものでした。
大切な人との別れを受け入れられない。そんな私の悲嘆を我が痛みと受け止めてくださる仏さまが阿弥陀如来でありました。我が痛みと受け止めてくださるからこそ、私を見捨ててはおけないと立ち上がってくださった。阿弥陀さまは私たちがこの世の命を終えていく時、必ずお浄土へと抱き取ってくださる仏さまです。いついかなる時も私を生涯抱き続けてくださっている。だからこそ、いつどのような形で命を終えようとも、その時にお浄土へと連れ帰ってくださるのです。
父はただただ空しく命を終えていったのではありませんでした。阿弥陀さまに抱かれてお浄土へと生まれさせていただいた。そして私自身もいつか命を終えていく時がやってきます。その時に阿弥陀さまに抱かれて同じお浄土へと生まれさせていただく。悲しみがなくなるわけではありませんが、「また会える世界がある」ということに支えられて生きていけるのです。
本願寺派布教使 正親 一宣