親の意見となすびの花は千に一つのあだもなし
夏野菜の一つである茄子。茄子は花が咲くと必ず実をつける為、あだ花(咲いても実を結ばない花)がないと言われます。そんな茄子のあり様を引き合いに出し、親の意見に耳を傾けるようにと用いられたのが冒頭の言葉です。親子関係や家族関係の変化もあってか、最近は耳にすることが減ったように思います。
必ず実が成ると聞いて思い出す花があります。それは仏教で大切にされている蓮です。蓮が仏教で大切にされる主たる理由は他にありますが、「必ず実が成る」という点も蓮が大切にされる理由の一つです。蓮は花が咲いた時、即座に実が成っています。
南無阿弥陀仏をいただく私たちは命が終わる時、阿弥陀さまのおはたらきによってすぐさまお浄土に生まれさせていただき、おさとりの身である仏さまに成らせていただきます。今、私たちが「南無阿弥陀仏」と申している姿がお念仏の華が咲いたすがた。その私が命終えていく時には、ただ散っていくだけではなく、必ずお浄土に生まれて仏と成る実のある人生を歩んでいるのです。私は「必ず」と約束されているからこそ、私たちは安心して生きていくことができると受け止めています。
私たちも「必ず」という言葉を口にすることはあります。ですが、私たちの「必ず」は本当に「必ず」でしょうか。
新型コロナウイルス蔓延前のこと。甥が「運動会を見に来て!」と誘ってくれたので、「わかった。観に行くね」と答えました。甥は大変喜び、「やった!必ず来てね!」と念を押してきたので、私も「必ず行くよ」と約束しました。運動会の2日前の日。お寺に一本の電話が鳴り、ご門徒がご往生されたという連絡が入りました。お葬儀が甥の運動会の日と重なり、「必ず行くよ」と約束した運動会には行くことはできませんでした。
こうありたいと思っていても、「必ず」と約束しても、どうなっていくかわからない不安定なあり様をしているのが私たちの姿。そのような私たちこそを救わずにはおれぬと立ち上がられたのが阿弥陀如来でありました。縁によってはどのようになっていくかわからないこの私の為に、私を必ず救うことのできる仏さまと成ってくださいました。南無阿弥陀仏のお念仏の声となって、今私たちのもとに届いてくださっています。
私たちの人生はいつ、どのようなことが待ち受けているかわかりません。ですが、その私を包み込み、「どのようなあなたであっても必ず仏と成らせる」と私を抱き続けてくださる仏さまがいると聞く所に、安心して生きていける道が開かれていくのではないでしょうか。
本願寺派布教使 正親一宣