『彼の岸に 生まれ往きたる 祖母想う 私の頬を 撫でる西の陽』
お彼岸の時期になると、大谷本廟には、大勢の方がお参りにいらっしゃいます。私たちは、なぜ、お彼岸にお墓参りをするのでしょうか。それは、大切な方を偲ぶのに、ふさわしい時節のひとつが、お彼岸だからです。
そもそも「彼岸」とは、文字通り、向こう岸のこと。「悟りの世界」を意味する仏教用語です。お彼岸の時期には、夕陽がちょうど真西に沈みますが、お経には、「ここから西の方角のかなたに、お浄土という安らかな『悟りの世界』がある」、「私たちは命を終えるときに、阿弥陀仏という光の仏さまに抱かれて、お浄土へと往生させていただく。そして、阿弥陀仏と同じ光の仏さまに成らせていただくのである」と説かれています。
先人がたも、お彼岸に「あの人が生まれて往ったお浄土は、あの夕陽の向こうにある」と懐かしく偲びながら、「私も、同じ阿弥陀さまに抱かれて、同じお浄土に往生させていただくのだ」と命の往く先を見つめ、お浄土での再会を確かめてこられたのです。
では、先立たれた方とまた会えるのは、私たちが命を終えた後なのでしょうか。「そうじゃない。今も会っているんだ」と、深く想うご縁がありました。
祖母のお葬儀の日のこと。お骨上げに行ったとき、祖母の変わり果てた姿を見てショックを受けました。ついさっき、お棺にお花を手向けていたときには、そこに確かにあった祖母の面影が、まったくなくなってしまった。言葉にならない虚しさの中、お骨を一つひとつ拾い入れ、まだ温かいお骨壷を抱えて、帰りのバスに乗り込みました。火葬場を出たのは、夕暮れ時。その日は、雲ひとつない快晴でした。バスが坂を登りきり、川を渡る橋に差し掛かったとき、私の黒い衣が、パッと赤く光りました。身体を窓の方へと向けると、美しい夕陽が、揺れる水面をキラキラと輝かせながら、真っ直ぐに私たちを照らしていたのです。
それから夕陽を見るたびに、あのときの光景が心に浮かびます。
夕陽を眺めているとき、その光は、眺める私に確かに届いています。優しくて、ほのかに温かい陽光。その感触が、いつまでも子ども扱いをしてきた祖母の手と、重なるように感じた瞬間がありました。しわしわで細くて、少し硬くて、温かい。あの手で私の頬を撫でながら、祖母が話しかけてくれたように想ったのです。
「お浄土に往ったきりではなくて、光の仏さまに成って、ここに還ってきてくれている」と、沈みゆく陽の光に包まれながら、ありがたく懐かしく、味わわせていただいたご縁でした。
お互いさまに、お彼岸の夕刻には、西に想いを向けながら、大切な方を偲ばせていただきましょう。
本願寺派布教使 若林唯人