しあわせなら手を合わそう

あるお寺にお参りされた方がお寺のご住職にこんな質問をされたそうです。
「手を合わせたら、幸せになれるんですか?」
この質問に対してご住職は、
「手を合わせたからしあわせになるのではありません。手を合わせずにはいられない、そのようなものに出遇えたことがしあわせなのです」
とお答えになったそうです。これは知り合いのお坊さんから教えていただいたお話で、私は何だか価値観をガラリとひっくり返されたような思いがしました。それは、私にとって幸せとは、私の願望が叶うことであり、今ではないいつか、此処ではない何処かにあって、自分の努力や心がけの先に手に入れられるもののように捉えていたからだと思います。
このご住職の仰る、手を合わせずにはいられない気持ちを、僧侶であり教育者でもいらっしゃった東井義雄先生(1912ー1991)の詩に窺うことができます。
「無理をせんといてください」
「無理をしないで休んでいてください」
腰が曲がって ひどく小さくなってしまった老妻に
何べんも気づかってもらいながら 土手の草を刈る
何だか うれしく 何だか しあわせで……
※出典:東井義雄『何だか うれしく』
自分に向けられたあたたかな眼差し、やさしい思いやりや言葉がけにふと気づかされた時などに、うれしさや申し訳なさ、ありがたさと共に私たちは思わず手が合わさるのではないでしょうか。それは、いつか・何処かにあるのではなくて、今・此処に恵まれているのです。
私たちの御本尊は阿弥陀如来。幸せを求めて七転八倒しながら生きる私をご覧になり、お願いしたわけでもないのに、途方もないご苦労を経て私の為の救いを完成し私の元に来てくださった仏さまです。ここ大谷本廟は、阿弥陀さまの私たちに向けてくださった大いなるお心に出遇わせていただく所です。また、先立たれたお方からいただいたご恩に改めて気づかされる所でもあるでしょう。
「しあわせなら手を合わそう」 本年も共々に手を合わせましょう。
本願寺派布教使 田坂亜紀子