『みほとけに抱かれて 君ゆきぬ西の岸』

ある朝の『北海道新聞』、「読者の声」の欄に70代女性が書かれたおよそこのような投稿がありました。
歳の離れた姉が入院したときのことです。
私自身もかつて同じ病気を患い、長い入院生活の末にようやく退院した際、
再会した知人が「おかえりなさい」と笑顔で迎えてくれたことを思い出しました。
「ああ、私の事を待っていてくれた人がいたんだな…」と、とても嬉しかった。
だから姉にもどうにか病気から回復してもらい、あの日私があんなに嬉しかった「おかえりなさい」という言葉を言ってあげたかったのですが、ついにその言葉を言う機会はありませんでした…。
でもいまは、“お浄土”で両親や兄が「おかえりなさい」と姉のことを笑顔で迎えてくれたに違いないと思っています。出典:北海道新聞『読者の声』
大切な方との別れの悲しみやさみしさだけではなく、どこかあたたかくどこか懐かしい世界をこの女性の言葉の中に感じるのです。
加えて、ご自身もやがて必ず命を終えていかねばならないことをご存知で、その時にはお浄土で両親や兄、そしてこのたび先立っていかれたお姉さまが「おかえりなさい」とやさしく迎えてくれるに違いない。そんな同じ“命の往き先”を持ちながらの現在を生きていらっしゃるお姿をも想像させていただくのです。
みほとけに抱かれて 君ゆきぬ西の岸
出典:仏教讃歌 『みほとけに抱かれて』
「あなたの命を抱きしめて、お浄土(西の岸)へと必ず迎えとるよ」と高らかにお誓いくださった阿弥陀さま。それは先立っていかれた誰かのためだけの話ではなく、あるいは命終わる最期の瞬間だけの話でもありませんでした。
阿弥陀さまはいまもうここに私の命を抱きとってくださってあることを、このお彼岸というご縁に先立たれた方を偲びつつ仰がせていただきます。
本願寺派布教使 渡辺雅俊