『おかえり I‘m home 一言で満たされる心』
出典:絢香『おかえり』

先月は母の日、今月は父の日があります。ご両親のことを思って過ごされている方も多いのではないでしょうか。私も母の日には母に御礼を伝えました。いつも実家に帰ると「おかえり」と迎えてくれる声にどこか安心を覚えます。似た経験のある方もいらっしゃることでしょう。私たちは家に帰って安心するのでしょうか。それとも「おかえり」と言う言葉に安心するのでしょうか。
ある僧侶の先輩からお聞きしたお話です。その先輩はあるお寺の次男として生まれました。結婚を機に少し離れた地域のお寺に入られ、お義父さま、お義母さまと一緒に生活を送ることになります。その生活が始まってすぐの頃は特に気を遣いながらの生活だったそうです。
用事がある時には実家に帰ることもありました。ある時、実家に帰ると母親が迎えてくれた。「よう帰ってきたね。おかえり」と声をかけられ、「ただいま」と家の中に入っていく。「ここに自分の居場所があった」そんな思いがして、もの凄く安心されたそうです。ですが、実家に帰った時に迎えてくれたのは母親だけではなかった。また別の時に実家に帰ると、今度はお兄さんに迎えられる。すると、「なんや。お前か。何しに帰ってきたんや」と言われたそうです。思わず「帰ってきたらあかんのか!」と言い返してしまい、兄弟喧嘩が始まりそうになったと言います。そしてまたある時、義理のお姉さんが迎えてくれた。その時には、「○○さん、いらっしゃい」と声をかけられたそうです。思わず「お邪魔します」という言葉が口をついて出る。「お邪魔します」と入っていったその場所は、いつもと景色が違ったと言います。自分が生まれ育った、慣れ親しんだ場所ではあるけども、そこに自分の居場所が無いような気がして、居心地が悪かったそうです。実際、母親がご往生されてからは、実家に足を運ぶ機会も少なくなったと聞きます。
「帰る場所」「居場所」と言うのは、単に建物や空間のことを言うのではないのでしょう。「おかえり」と迎えてくれる方がいる所を「帰る場所」と言うのではないでしょうか。
阿弥陀さまは、私が命尽きる時には必ずお浄土に生まれさせると仰います。阿弥陀さまが私をお浄土に連れ帰ってくださり、「ようお浄土に参ってきてくれたな。おかえり」と迎えてくださる。だからこそ、浄土真宗を大切にされた先輩方は、阿弥陀さまのお浄土を私たちの命の帰すべき所、命の居場所であると喜ばれました。しかもそれは阿弥陀さまだけが迎えてくださるのではない。そのおはたらきによって先にお浄土へと生まれていかれた懐かしい方々も一緒になって「おかえり」と迎えてくださる。それがお浄土であると聞かせていただきます。
本願寺派布教使 正親一宣