織姫と彦星のように、今の出会いを喜べているか

一年に一度だけ、織姫と彦星が再会を許された、七夕の夜。二人は、また会えた幸せと喜びを噛み締めながら、大切に、大切に、限られた時間を過ごしていることでしょうね。
他方で私は、毎日、家族と会えている。そのことを二人と同じように、幸せに感じられているか、喜べているだろうかと、ふと思いがよぎりました。皆さまは、いかがですか。私は、会えるのが当たり前と思ってしまい、その有り難さを忘れて生活していました。
あるご法事で、ご遺族の方が「有り難うと言いそびれてしまいました」と涙ながらにお話しくださいました。故人さまがこのお言葉を聞かれたら、「そう思ってくれて嬉しいよ。有り難う」と喜ばれるだろうなと思うと同時に、「そう思ってくれるなら、今、隣にいる家族に、同じ後悔を抱かないように生きていきなさい」と諭されるようにも思いました。
とはいえ、残された時間をどれほど大切に過ごそうと努めても、別れのあとには、やはり後悔の思いを抱くだろうし、あふれる涙をとめられないのが、私たちなのでしょう。
そんな私たちと、浄土真宗のご本尊の仏さま、阿弥陀さまは、今もご一緒くださり、お念仏の声となって、このように喚びかけてくださっていると聞かせていただきました。
「その苦しさ、その悲しさ、全部、わかっているよ。もうそんな苦しい思いをさせはしない。苦しみのない安らかなお悟りの世界、お浄土へと生まれさせて、同じ悟りの仏と成らせるから、安心なさい」。
私たちは命を終えるとき、お浄土に生まれて、仏さまに成らせていただく。その有り難さを、しみじみと味わわせていただいたご縁がございました。
以前、「倶会一処」をテーマに、ご法話をさせていただいたときのこと。「同じ阿弥陀さまに抱かれて、同じ一つの場所、お浄土に生まれさせていただく。また、再会をさせていただけるのですね」と、阿弥陀さまのお救いの一端をお取り次ぎさせていただきました。
そのご法座は、ご法話のあとで、お参りに来られたお同行の皆さまと、おにぎりとお茶を頂きながら歓談する時間がありました。私の隣に座られたのは、82歳の女性。お話をお聞きすると、3日前に、おつれあいさまがご往生されたとのこと。お葬儀も、まだこれから。なんとお言葉を返したらいいかと逡巡していると、その女性は私に、このようにお話しくださったのです。
「先ほど『お浄土でまた会える』とお話しくださいましたけど、私がお浄土に往ってから会えるというより、あの人は仏さまに成ったんだから、向こうからもう私に、会いに来てくれてるんですよね。そうですよね。そう。だから、会ってるんですよ。お念仏しながら、会ってるなぁ、って。離れたような気がするけどそうじゃなくて、主人が亡くなってから改めて、おぉ会ってるねぇ、って。だから、変に寂しくないというか。生前は離れ離れ、心も離れ離れのときもあったけど、今は完全に、私のことがわかっていて、私が、『よかった。あの人と一緒に55年いて』と思ってるのも、わかってくれてるな、って。そう思いつつ、生きていけます」
本年5月に私の父が往生してから、たびたびこのお言葉が思い返されては、嬉しく、少し照れくさく、そしてやっぱり、有り難いと、お救いのおこころを味わわせていただいています。
皆さまも、大切な方とのお別れのご縁がございましたね。その大切なお方も、お浄土に生まれられて、仏さまと成られた。そして今も、今も私とご一緒くださっている。お念仏を称えながら、その温もりを確かめさせていただき、今のこの再会を喜ばせていただきましょう。
布教専従員 若林唯人