『たかが と されど を 行ったり来たり』
出典:GADORO『三つ葉のクローバー』

人生を歩む中、私たちの前には様々な困難や逆境が立ちはだかることがあります。その時に「たかが私が、、、こんな自分でいいのだろうか」という思いと「されど私が!それでも前を向いて行こう」という思いが、行ったり来たりすることはないでしょうか。
浄土真宗の教えを中心に歩んでいく人生にも「たかが私とされど私」はあります。けれどもお念仏が中心になっているかどうかで、その揺れの味わいはまったく異なります。
末期がんを患う、80代の女性から教えていただいた話です。この女性は非常に熱心な浄土真宗のご門徒さん。病気を患いながらもことあるごとにお念仏をしておられ、「死ぬのは怖くない。浄土に生まれさせていただくんやから。」と言うのが口癖でした。
阿弥陀さまは「あなたを必ず浄土に生まれさせ、仏とならせる」とお誓いくださいました。「その心を聞いておいておくれ」と常に呼びかけてくださいます。この女性はその呼びかけを素直に聞き、阿弥陀さまがおられることを心から喜んでおられました。
朝と夜に、ふと冷たさを感じるようになった頃のこと。その日は、今まで経験のないほどに体調が悪かったそうです。開口一番このように語ってくださいました。
「だいぶ身体がしんどなってきたな。そうなるとやっぱり気持ちも辛いな。もう死ぬ覚悟してきたつもりやったけど、死んでいくのはそら辛いわな。死ぬの怖くない言うてたけど、本当の意味で死ぬとは思ってなかったわ。人間って弱いな。調子がいい時は楽しいことを考えられるけど、こうなったら暗いことしか考えられんわ。
けれども死んだら両親には会えると思っている。真っ先に会いにいきたいな。阿弥陀さまが一緒やからそこは安心や。なんまんだぶ。なんまんだぶ。」
あれほどお念仏を喜んでおられた方が、このように話されることに正直驚きました。死を前にして「たかが私」と沈みつつも、「されど阿弥陀さまに救われた私」と受け止めておられた。そこに“たかが”と“されど”を行き来する女性の姿がありました。
心に余裕がある時、体の調子がいい時には、「されど!」と前向きに今を受け止められるのかもしれません。しかし、些細なことであってもそのバランスが崩れたとき、「たかが」と気を落としてしまうこともあります。
しかし私たちの人生には、決して崩れることのない大地のような仏様がご一緒です。「あなたがどのような心持ちであってもどんな状況に置かれていても支え添い遂げる。」その仏様が今ここにお念仏となってご一緒くださるからこそ、安心して「たかが私、されど私」と揺れる人生を歩んでいくことができるのです。
本願寺派布教使 渡辺 有