月々のことば(法話)

2026年8月

『だれにえんりょがいるもんか 声をかぎりに泣くがいい ただひたすらに 泣けばいい』 

出典:相田みつを『泣』

 三十三年前、私の弟は、生後六ヶ月で病によって命終えていきました。その弟の遺骨は大谷本廟に納骨させていただいておりますが、弟が納骨されている場所で手を合わす時、父から聞かせてもらったこんな話を思い出します。

 弟の遺体を火葬した直後のこと、遺骨が入った小さな骨壷を父が抱えてみたら、その骨壷が人肌のように温かったといいます。高温で焼かれた遺骨の熱が、骨壷を通して手に伝わってきているだけ、頭ではそう理解していても、骨壷から感じるぬくもりが、まるで我が子を抱いているような思いにさせてくれて、本当は悲しいはずなのに、その時ばかりは嬉しさを感じたというのです。骨壷のぬくもりを我が子のぬくもりと感じるほどに、現実を受け止められない中、父にかけられたのは、近所の方や友人からの多くの励ましの言葉でした。

「辛いだろうけど、頑張って。」

「あなたには守るべき家族がいるでしょ、だから気をしっかり持って。」

「大丈夫。時間が解決するよ、顔を上げて。」

 自分のことを心配してくれているからこその言葉であることは重々わかって、ありがたかったし、父自身も「頑張ろう、気をたしかに持とう、顔を上げよう」とも思ったけれど、できなかった。そうして悲しむことを否定することで、かえって悲しみが深まったというのです。

 私たちは、本当に悲しみが深い時、頑張れと言われても頑張れない時があります。そんな中、溢れ出る涙を押しとどめ、無理に顔をあげて生きていこうとすればするほど、悲しみの底に沈んでいってしまう。しかし、私たちは、頑張って平静を取り繕って、自分をごまかさなくてはいけないことが多いのかもしれません。

 そんな私たちに、「無理に涙を止めなくてもいい。泣きたかったら泣いてもいいよ」とおっしゃってくださるのが阿弥陀さまです。別れを受け入れられず、涙を流しながらしか生きていけない存在であることを見抜き、そのままに抱きとり、支え続けていくことのできる仏に成るという願いを起こされました。その願いを、ご修行の末に成就してくださって、願いの通りの仏さまと成られた阿弥陀さまが、「南無阿弥陀仏」の声となって、私たちの上にはたらいてくださっています。

 父は、弟の葬儀の日から毎晩、骨壷を抱えながら涙を流したそうです。その涙を否定せず、受け止めてくださる阿弥陀さまがいつでもご一緒くださるから、我が子を失った悲しみの中でも人生を歩んでこられた、そんな父の話を、私は弟が納骨されている場所で思い出すのです。

 八月は多くの地域でお盆を迎えます。お墓やお仏壇の前で手を合わせる中で、先立たれた方を思い出して、涙が溢れてくることもあるでしょう。その悲しみを乗り越えていきなさいとはおっしゃらない、誰にも遠慮はいらないから声をかぎりに泣いてもいいよとおっしゃってくださる阿弥陀さまを依りどころに、人生を歩ませていただきましょう。

本願寺派布教使 矢鳴(やなる) 峻基(しゅんき)

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