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令和7年 秋季彼岸会「摂取不捨」
「仏さま」と聞かれたとき、皆さまはどのようなお姿を想像されますか。浄土真宗のご本尊「阿弥陀如来」という仏さまは、お立ち姿であるという大きな特徴があります。そのお姿には「苦しみを抱えて生きる私たちを決して放ってはおけない、一人も残すことなく救う」という阿弥陀さまのお心が表されています。
私たちは日常、言葉によって人の思いに出遇ったり、言葉によって救われたと感じることもあります。ですから阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」という言葉の仏さまとなって、苦しみ悩んでいる私たちを放ってはおけないと、智慧と慈悲のお心を示されています。
阿弥陀さまのおはたらきを言葉で私たちに伝えてくださったお方が、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人です。大谷本廟の明著堂前にお供えされた花文字「摂取不捨」は『仏説観無量寿経』の中の言葉です。親鸞聖人は言葉を大切にされ、ご自身が書き記す言葉に説明が必要な場合は、文字の左側に仮名で意味を書き添えられました。「摂取」の言葉についても、「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」「ひとたび取りて永く捨てぬなり」と示され、どこまでも追いかけて一度おさめ取ったならば、決してお捨てにならないという阿弥陀さまのおはたらきを喜ばれました。
阿弥陀さまのお心は、いつでもどこでも分け隔てなく、すべてのいのちに向けられています。じっと座って待っておられるのではなく、南無阿弥陀仏の六字の名号となって「われにまかせよ そのまま救う」と、まさに今、私たちのところに来て、はたらき続けておられます。
大谷本廟には、全国各地から多くの参拝の方がお越しになり、それぞれが様々な思いを抱えてお参りされています。こよなくお彼岸のご縁を大切にされ、お念仏申す人生をともに力強く歩ませていただきましょう。


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令和7年 春季彼岸会「不可思議」
「不可思議」の花文字は、ご開山親鸞聖人がお書きになられた『正信念仏偈』の最初の二句『帰命無量寿如来 南無不可思議光』(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)の中からいただきました。この『正信念仏偈』は『正信偈』とも言い、浄土真宗においては、法事や法要、また日々のお勤めで大切にとなえられています。
親鸞聖人は、この最初の二句『帰命無量寿如来 南無不可思議光』において、私のいのちの拠り所は阿弥陀如来でありますという自身のお喜びのお心を示されています。
「無量寿如来」「不可思議光(如来)」とは、どちらも浄土真宗のご本尊「阿弥陀如来」のことであり、それぞれに阿弥陀如来という仏さまのはたらきを表した言葉です。
無量寿の無量とは、はかることのできないという意味です。そして寿とはいのちという意味なので、無量寿とは、はかることのできないいのち・長い時間ということを表しています。この無量寿如来という言葉が表しているのは、阿弥陀如来という仏さまが、過去・現在・未来と、悩み苦しむすべてのものを救わずにはおれないと、哀れみの心を抱き、願い続け、今現に救おうとはたらき続けておられるという「慈悲」のお姿です。
次に不可思議光の不可思議とは、私たちが普段使う「不思議」と同じ意味です。よって不可思議光も同じように言葉で表したり、思いはかることができない光という意味です。この不可思議光如来という言葉は、阿弥陀如来さまが、思いはかることのできないほどの光のはたらきをもって、あらゆるものをくまなく照らして、この私がどこにいても必ず至り届いてくださるという「智慧」のお姿を表してくださっています。
そして、無量寿(慈悲)のはたらきと、不可思議光(智慧)のはたらきが「南無阿弥陀仏」の六字の名号となって「われにまかせよ そのまま救う」と、まさに今、私たちに至り届き、はたらき続けてくださっています。私たちは親鸞聖人が『帰命無量寿如来 南無不可思議光』といただかれたように、この南無阿弥陀仏のお念仏を「ありがとうございます」と素直に受け止め、いただくばかりです。
合 掌

